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2013年12月

2013年12月16日 (月)

重松清『赤ヘル1975』(講談社)

1975は、もちろん広島初優勝の年。湧き立つ広島市民の狂乱ぶりは抱腹絶倒である。反面その年は、原爆投下30年の節目の年でもあった。

東京から巨人の帽子をかぶって転入した「マナブ」の目を通して、広島の人々の心に深く影を落とす「原爆」の姿を描いていく。「原爆」や「鎮魂」、そして「反戦」「平和」が生活に深く入り込む社会を「ヨソモノ」のマナブは理解できずに悩み、もがく。

「わからんでもええんよ。」今わからなくても、今感じた気持ちをそのまま心に刻んでいればいいと諭す友達の母。「原爆」より「原発」になってしまった我々も、「原爆」に再度触れて、何かを感じ取るよい機会となるかもしれない。

2013年12月14日 (土)

柘植智幸『「ゆとり世代」が職場に来たら読む本』(日経BP)

これはおススメだ。「上司」としても「親」としても。
これまで、「新入社員」たちと接すると、「違和感」があった。それを「誰だこんなヤツ採ったのは」と呆れて切って捨てたり、「最近の若いやつは…というなんて俺もじじいになったもんだ」、と勝手に納得したりしてきたが、それは問題をブラックボックスに押し込んできただけだった。
この本は、そんな彼らがどのような環境で育ち、どのような教育を受けてきたかを示し、だからこのような行動をする、と解析し、その対処法を説明する。その説明に「そうだったのか!」と何度膝を打ったことか。
彼ら「ゆとり世代」は、学力が低いだけでなく、絶対評価の中で「プロセス」を「ほめられて」育ってきたことに核心がある。だから、「がんばっているのに認められない」という最初に会社でぶちあたる問題を受け入れられない。叱られ慣れておらず、根拠のない自信はあるがメンタルが弱いので、「叱られる」と「嫌われている」が分別できず、折れてしまう。「原因が自分にある」と考え、「自分で責任もってやりきる」ことを手取り足取りやってやらなければならない。
これらのことを「『上司が仕事を教えてくれない』と新入社員が人事部に訴える」などのケースごとに、そこに至る新人のメンタリティと対処法を解説してくれる。「相手にしてられない」と忌避せず、我々は、彼らを「理解」して、向き合うことが必要なのだ。
社会人としてもそうだが、子供の親として、現代の教育環境では放置するとこういう若者に子供は育つんだ、とクリアに自覚するにもとても役立つ。30分もあれば読めてしまうので、最近の若いやつとのギャップを感じる人は、必読の一冊である。

2013年12月 2日 (月)

江上剛『慟哭の家』(ポプラ社)

ダウン症の28歳の息子と養育に疲れた妻を手にかけてしまう男。男は「死刑にしてくれ」と懇願する。国選でついた弁護士は、息子の通っていた施設で「彼には同情できない。」と言い切られてしまう。「なぜ殺したのか。」 真相を探して、若い弁護士と新聞記者が生前の息子の関係先を訪ねて回るが、先々で話される捉え方の複雑さに、ますます困惑していく。

本作は、経済小説の旗手、江上によるものだ。殺人事件ではあるが、ミステリーではない。男が妻と子を殺めた事実は全く争われないのだから、いわゆる犯人探しは行われない。しかしながら、謎はもっと深いところにある。「なぜ殺したのか。」 男のその時の「心情」こそが謎なのだ。そしてまた、その「心情」の「評価」もまた読者は考えに考えさせられる。

若い弁護士と女性新聞記者の眼を通じて描かれるのは、重度の障害児を取り巻く現代社会の生々しい情況である。ダウン症を中心にその子たちの成長や治療の様子がさまざまなエピソードで描かれる。もちろん、一人ひとりが症状も成長の過程も異なるのだから、ここにあるのはごく一部のエピソードであろう。しかしそれでも、それぞれえが胸を打つ。

そしてより細かく描写されるのは、その子たちに向き合う親たちの想いだ。そして、障害をもった子供に接する親や職員が、障害を持った子を殺した親を「同情できない」と言い放つ。なぜなのか。本作はそこを丁寧に書き込んでいる。

通勤途上に、障害児教育で有名な私立小学校や、自分で通うことのできない身体的・知的障害を持った子を迎える特別支援学校のスクールバスの停留所がある。車いすを押す親御さんや子供たちを、何かじっと見てはいけないような気持ちになってしまう。それは私が問題から目をそらしているからなのだろう。

重度の障害を持った子供たちの成長について、親の心情について、私は知らないことが多すぎる。知ったような気になってはいけないが、その世界への扉としてとても価値のある作品である。

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